芸術家
岡本太郎
おかもと たろう
Okamoto Taro
1911年〜1996年
- 作家・作品ジャンル
- 1911年
- 神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)に生まれる。大貫家にて漫画家・岡本一平、歌人で小説家・岡本かの子の長男。
- 1917年
- 青山の青南小学校に入学するが馴染めず、1学期で退学。私塾・日新学校、十思小学校と転校を繰り返す。
- 1918年
- 慶応幼稚舎に入学、寄宿舎に入る。
- 1929年
- 慶應普通部を卒業、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学。
- 父・一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行し渡欧。
- 1931年
- パリ郊外にあるセーヌ県ショアジー・ル・ロワのリセ「パンシオン・フランショ」(市立学校寄宿舎)に入学。
- ピカソの絵を見て、画面一体にのびのびと走る線、同じ時代の悩みを悩み、たくましく正面からぶつかっていく世界観に心をゆさぶられ、それまで覚えた過去の芸術様式をすべて捨てて、抽象画の道に入る。
- 1932年
- サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に『空間』を出品。高い評価を受け、非具象芸術グループ「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造協会)」の会員になる。
- 1937年
- サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に『傷ましき腕』を出品し、シュールレアリズムのリーダー、アンドレ・ブルトンに高く評価される。
- 抽象芸術運動の渦中にいたが、抵抗感を抱くようになった太郎。自分の中にある、なまなましく具体的な線や色の感情が、純粋抽象という枠の中に納まりきれなくなり、具体的な要素を抽象的な要素とからみあわせた作品に移っていく。『傷ましき腕』は真紅の結ばれたリボンから拳を握った腕が突き出ており、切り裂かれた生々しい傷口を感じさせる腕には強烈な現実感が貫かれていた。
- アプストラクシオン・クレアシオンを脱会する。
- 抽象芸術運動の渦中にいたが、抵抗感を抱くようになった太郎。自分の中にある、なまなましく具体的な線や色の感情が、純粋抽象という枠の中に納まりきれなくなり、具体的な要素を抽象的な要素とからみあわせた作品に移っていく。『傷ましき腕』は真紅の結ばれたリボンから拳を握った腕が突き出ており、切り裂かれた生々しい傷口を感じさせる腕には強烈な現実感が貫かれていた。
- 1938年
- アンドレ・ブルトンの勧めで、国際シュルレアリスム・パリ展に『傷ましき腕』を出品。
- パリ大学で『贈与論』を唱えた、マルセル・モースに師事し、民族学を学ぶ。贈与論とは「無償の贈与によって社会が成り立っている」という考え方で、何かを得るためにモノを提供するのではなく、贈与することが根本的に社会を成り立たせる原理と説く。太郎が壁画やモニュメントをたくさん手掛けたり、大阪万博の万博テーマ館プロデューサーを引き受けたりしたのも、民族学の考え方がベース。「モニュメントや壁画がいいのは、一銭も払わないで『いいねぇ』と眺めてもいいし、『なんだ、これは。こんなものを作りやがって』と悪口を言ってもいいんだぞ。見ないで通り過ぎてもいいんだよ。それがいい」と、太郎。「芸術は、全人間的に生きることです。私はただ、絵だけを描く職人になりたくない。だから民族学をやったんだ」とも語っている。
- 1940年
- ドイツ軍によるフランス侵攻により、最後の引き揚げ船・白山丸で帰路につく。
- 1946年
- 戦後、中国・洞庭湖近くの俘虜生活を経て復員。戦火により青山の自宅にあった作品の全てを焼失したことを知る。
- 1947年
- 上野毛にアトリエを構え、活動を再開。
- 1948年
- 「錯乱の論理」著者・花田清輝らと「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を開始。
- 絵描き志望の若者のために「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足。「どういうことを言おうとしているのか、自分がつかめていないのに、人に伝わるわけがない」と、太郎。「自分が何をやりたいのか、何を伝えたいかが分かっていたら、技術は後からついてくる。それは突き詰めれば、『どう生きるか』ということ。どんな姿勢で、どんなふうに社会に向かっているのか。それはただ、デッサンとか、色がどうとか、技術的なことを追い求めても見つからない。何をどういうふうに表現したいかは、自分で見つけるしかない」と、説いていたという。
- 1951年
- 東京国立博物館にて縄文土器を見て衝撃を受ける。
- 1952年
- 縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』に発表。建築界からグラフィックデザイナーの世界へと反応が波及し、学校の教科書で縄文土器についてのページが割かれるようになる。
- 地下鉄日本橋駅に26メートルのモザイク・タイル壁画『創生』を制作。公共の仕事も増えていく。
- 1955年
- ヘリコプターで東京・銀座の夜空に光で絵を描く。
- 1967年
- 日本万国博覧会のテーマ館展示プロデューサーに就任。コンセプトは、「過去ー根源の世界」「現在ー調和の世界」「未来ー進歩の世界」の3部構成。
- 1970年
- 日本万国博覧会シンボルゾーン中央に『太陽の塔』『母の塔』『青春の塔』を含むテーマ館完成。テーマ館館長を務める。
- 万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったが、太郎はそのテーマに楔(くさび)を打ち込むつもりで『太陽の塔』を作ったそうだ。進歩主義一辺倒になってしまいそうな万博に、わざと、どかんと正反対のものをぶつけた。進歩などという概念を超えて、大地からむくむくとのび、生えあがったような、生命力に満ちた人間像。それは、無邪気で、おおらかで、宇宙全体と響き合う原始神のようなものでもあり、根源的な人間の姿のようでもある。
- ちなみに、テーマ館のプロデューサーを引き受けたとき、太郎にはもうひとつ実現させたい構想があったという。それが、民族学博物館の建設である。集めてきた神像や仮面、生活用具などは、万博のテーマ館の「根源の世界」に展示された。大きな特徴は、すべてが露出展示という展。「お面は、かぶって踊っていたものなんだ。楽器は、本当にお祭りのときに弾いたものなんだ。それをガラスケースに入れたら、意味がない。なくなってもいいから、露出展示だ」と、太郎は言い張ったのだとか。しかし、幕を開けてみたら、いたずらもされなかったし、紛失したものもなく、その後、万博公園の国立民族博物館に収蔵されているが、今も露出展示をしている。これは、世界の博物館の展示において、本当に革命的な展示である。
- 万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったが、太郎はそのテーマに楔(くさび)を打ち込むつもりで『太陽の塔』を作ったそうだ。進歩主義一辺倒になってしまいそうな万博に、わざと、どかんと正反対のものをぶつけた。進歩などという概念を超えて、大地からむくむくとのび、生えあがったような、生命力に満ちた人間像。それは、無邪気で、おおらかで、宇宙全体と響き合う原始神のようなものでもあり、根源的な人間の姿のようでもある。
- 1975年
- 市民の保存運動が実を結び、『太陽の塔』の永久保存が決定された。
- 1984年
- フランス政府より芸術文化勲章を受章。
- 1985年
- 青山・こどもの城にシンボルモニュメント『こどもの樹』を制作。『こどもの樹』は樹木の生命力と、子どもは一人ひとり違うということの象徴。いくつか顔があるが、みんな子どもの顔。泣いている顔もあるし、怒っている顔もあるし、笑っている顔もある。「みんな、それぞれの子どもが、自分独自の顔を持っていなくてはいけないんだそ。べそをかいている子は一日中べそをかいていてもいい。怒っている子は、一日中怒っていてもいい。ベロを出していてもいいんだぞ」と、太郎はメッセージを込めていたと言われている。
- 1989年
- フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章。
- 1991年
- 十二指腸潰瘍で慶應病院に入院。
- 川崎市市民ミュージアムにて行われた「川崎生まれの鬼才―岡本太郎」展を機に、川崎市に主要作品を寄贈。5000㎡の大規模美術館で、岡本作品のほぼすべてを収容し、高さ30mの巨大モニュメント『母の塔』も設置されている。
- 1996年
- 1月7日、急性呼吸不全にて死去。
- 2003年
- 1969年にメキシコで描かれたまま行方不明になっていた巨大壁画『明日の神話』が発見され、再生を願う多くの人々のサポートにより復活。修復完了後の公開には50日の会期中に200万人が詰めかけた。壁画は2008年に東京・渋谷駅に恒久設置され、若者の街の新たなシンボルとして大きな話題となった。
- ▼参考サイト
- ・川崎市岡本太郎美術館 ≫ https://www.taromuseum.jp/
- ・岡本太郎記念館 ≫ https://taro-okamoto.or.jp/
- ▼参考文献
- ・岡本太郎―岡本敏子が語るはじめての太郎伝記
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