17世紀の京都で活躍した京狩野派を代表する絵師。

1590年、九州肥前国に生まれる。幼名は彦三。父は千賀道元といい、母は松浦氏の出身だった。

幼い頃から絵を描くことが好きで、道元が辞めさせようとしてもできなかったという。

幼少期に父と共に大阪に移り住むが、1605年、16歳の時に父と死別する。

彦三に絵の才能があることを知っていた叔父が、豊臣氏の絵師として活躍していた狩野山楽に弟子入りさせる。

弟子入りした彦三は、次第に頭角を現してゆく。1619年、三楽の娘・竹と結婚し、名を平四郎と改め狩野姓を授けられる。三楽の長男・光教が死去すると、三楽は平四郎を後継者とし、山雪と号させた。

1631年、美術史上きわめて重要な作品として知られている「天球院方丈障壁画」の制作に携わる。

同年、息子・永納を授かる。

1635年、三楽の死去に伴い、正式に家督と京狩野派を継ぐ。以降、九条家の元で、妙心寺、天祥院、東福寺などの作画に携わる。

1642年、狩野家の本筋である江戸狩野派の探幽が筆頭となって手がけた京都御所壁画制作の場に、山雪は招かれなかった。血筋を第一として結束を計る狩野本家筋から、狩野の血筋を引かない異質の家系は疎外され、公儀の画作から遠ざけられてしまったのだ。

狩野一派の中で急速に地位を低下させてしまった山雪だったが、江戸狩野とは距離を置き、自らの絵画を極めようと、作画の日々を送った。

1647年、九条幸家の命により、東福寺の伝明兆筆「三十三観音図」に欠けていた二幅を補作し、その功績により法橋位を授かり、社会的地位を獲得することとなった。

1649年、山雪が60歳のときに、三楽の次男である伊織が起こした金銭トラブルに巻き込まれ、揚がり屋(牢屋)に収容されてしまう。九条家の尽力により出獄することが出来たが、この心労が祟ってか、1651年に他界する。

山雪は学者肌、文人的な気質を持つ画家で、儒学者・隠者とは交流するが、俗世間とは交渉を避け、絵のことばかり考えている非社交的な性格だった。

山雪の絵画は、垂直・水平・対角線を基軸とした幾何学的な装飾と、それを際立たせるために明暗を強烈に対比させた特異な画面構成、そして、細部に徹底的なこだわりを見せながら細心の注意を持って施された丁寧な仕上げが魅力である。

独自性が際立つ山雪の諸作品は、近年高い支持を集めており、再評価が進んでいる。