1908年、彫刻家である田中彌吉の長男として栃木県に生まれる。姉の喜美子を始め、8人兄弟であった。
1914年、一村が5歳の春に東京に転居する。
当時の父の彫刻の師は、栃木の代々続いた宮大工の家柄の渡辺正信であったが、渡辺の死に直面し、新しい師を求めての上京だった。
一村の父が師事したいと思ったのは、当時を代表する彫刻家「狩野鐵哉」であった。
正倉院、法隆寺などの宝物の模造に力を注いだと言われている人物で、彫刻と合わせて南画も学び、仏画や根付も行っていたという。
上京後、父が実際に狩野鐵哉に師事したかは不明である。一村は父の指導の元、彫刻や南画を学んだ。
この頃の栃木における南画は最盛期であり、田崎草雲、小室翠雲などの巨匠が活躍していた。

1926年、一村は東京美術学校に入学。
同期には「東山魁夷」や「橋本明治」など、近代日本画を代表する画家たちがいる。
しかし、家庭の都合でわずか2ヶ月で退学する。
この頃の一村の創作活動は、病気の家族を抱えながら生活を支え、自らも闘病しながら作品を創り出していた。
退学後、独学の道を進んだ一村は独自の世界観を築き上げていった。
1931年、一村は南画との決別を図り、これまでの作画とは趣きが全く異なる「水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹」を描いた。
それは、スケッチの日々から紡ぎ出された実写をベースにした新しい絵画であった。
1938年、一村は一家で千葉に転居する。それから20年間、農村の風景や動植物の写生に没頭する。
1947年、川端龍子の画塾青龍社展に「白い花」を出品し初入選する。一村はようやく画檀へデビューを飾った。
しかしその翌年に出品した、「秋晴」は落選した。
団体展への制作を続けていた一村は、一方で天井画を描くという仕事も引き受けていた。
1950年頃には世田谷の個人宅仏間の「草花図天井画」を制作し、1955年には石川県の宗教法人「やわらぎの郷」の「薬草図天井図」を制作した。

1955年、一村は九州、四国、紀州へ写生の旅へ出た。
1958年、第43回院展に「岩戸村」「竹」を出品するが落選してしまい、奄美行きを決意し、家を売却する。
奄美では、亜熱帯の花鳥や自然の情景を題材に作品を制作していた。
1960年、千葉に一時帰省し、岡田藤助の配慮で国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられ、作品を制作する。
1961年、奄美に戻り、名瀬市有屋の一戸建ての借家に移り住み、農業を始める。
1962年、紬工場で染色工として働き始め、生計を立てながら作品の制作を続けていた。この頃「初夏の夏に赤翡翠」を描いた。
1965年、姉の喜美子が逝去し、同年、一村を支え続けた親戚の川村幾三もこの世を去る。
1969年、晩年の代表作「アダンの海辺」を制作。1973年、「熱帯魚三種」を描く。
1977年、心不全で倒れ、69歳の生涯を終えた。
無名のままこの世を去った一村であったが、一村が世間に知られる事になったのは、NHKの番組「日曜美術館」の放映である。
その後、各地で展覧会が相次いで開催され、今もなお多くの人々の心を捉え続けている。