1539年、能登国(石川県)の戦国大名・畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として七尾に生まれる。

幼少期、染物屋である長谷川宗清の養子となる。養父の宗清は雪舟の弟子である等春の門人で、養祖父の無分も絵師であった。
等伯は、10代後半から養父や養祖父に絵の手ほどきを受けたと考えられる。
当時は、「長谷川信春」と名乗り、長谷川家が熱心な日蓮宗信者だったことから、主に仏画を描いていた。
信春時代の作品に、『日蓮上人坐像(1564年・本延寺蔵)』『十二天図(1564年・正覚寺蔵)』『涅槃図(1568年・妙成寺蔵)』等がある。

1571年、養父母の宗清と妙相を相次いで亡くしたことをきっかけに、妻の妙浄と、当時4歳だった久蔵を連れて京都に移住する。
移住するにあたり、信春が頼ったのは、信春の生家・奥村家の菩提寺にあたる本延寺を末寺としていた、京都法華宗十六本山の一つ、本法寺であった。
移住後最初の絵仕事は、この本法寺の住職・日堯の遺像『日堯上人像』の制作である。
日堯が信春の移住に深く関与していた為、そうした関わりから遺像の制作を委ねられることになったのだろう。
驚くほど細緻な描写と艶やかな彩色、これは仏画や祖師像制作で培われた高度な技術が駆使されたもので、既にこの時点で信春は肖像画家として一級の技量を身につけていたといえる。
その後信春は、狩野家が同じ法華宗の信徒であり、本延寺に頻繁に出入りしていたことから、狩野派に入門したと考えられている。
狩野派での修行はあまり長続きしなかったようだが、『春耕図」(京都国立博物館蔵)』や『陳希夷睡図(石川県七尾美術館蔵)』『牛図 (東京国立博物館蔵)』などの水墨画に狩野派からの影響を見ることができる。
またこの頃、京都と堺を往復して、千利休や日通をはじめとする堺の豪商や茶人たちと交流を持ち、彼らの所持していた牧谿や玉澗、夏珪などの中国名画を実際に見る機会を得て、画嚢を肥やしていった。

1589年、利休の依頼で、絵師にとって槍舞台とも言える大徳寺において、三門楼上の壁画制作を手掛けた。

また、同年、大徳寺の三玄院の障壁画も手掛け、絵師として大いに名をあげることとなった。
「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。

1591年、秀吉の愛児・鶴松が病死し、その菩提を弔うために秀吉が建てた祥雲寺の方丈障壁画を、狩野派ではなく長谷川派が
制作することとなった。
この頃、狩野派の長であった狩野永徳が急死したことや、祥雲寺の造営奉行に玄以が就いたことも、影響したのであろう。
等伯は『楓図』をはじめとする壮麗な金碧大画を産み出し、秀吉は大いに喜び、知行200石を授けた。
こうして等伯率いる長谷川派は、名実共に狩野派に並ぶ存在となった。
ところが、ほどなくして、利休が切腹し、等伯の後継者であり右腕だった息子の久蔵が急死するなど、次々と等伯を不運が襲った。
等伯は、深い悲しみに見舞われながらも『松林図屏風』をはじめ、数々の優れた水墨画を制作した。
等伯の気持ちの支えとなったのは、法華宗への篤い信仰心であった。
等伯の法華宗への信仰心は、寄進をもって表され、その最もたるものが、1599年に本法寺に寄進された『仏涅槃図』である。

1599年は本法寺本堂が落成した年で、その記念として寄進されたものだが、その裏面には日通の筆によって法華宗の祖師や歴代と共に、等伯の親族らの名が連ねられており、親族への供養の意味も込められていたことがわかる。
以降、法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その功績から1604年に「法橋」に、翌年には「法橋」の次の位である「法眼」に就いた。

1610年、徳川家康の要請により江戸に向かう途中で発病し、江戸にて病死する。享年72歳であった。