弘仁 (こうじん Hongren)は中国、明時代末期〜清時代初期に活躍した画僧。西暦1610年~1663年(明・万歴38年~清・康煕2年)。故郷の川に因んで漸江、漸江学人と号した。別号には梅花古衲、俗名は江韜、字は六寄。安徽省歙県の人。

明の諸生になり官位に就くが、35歳のとき南京が陥落。その後、唐王に仕え福建で清軍に抵抗するも壊滅。その後武夷山に入り、古航禅師道舟の元で出家した。禅の修行の傍ら詩画の修練を行った。山水の筆法は倪雲林、黄公望を学び、結構は緊密、気象は荘厳、渇筆は松秀、気韻は荒寒であった。黄山を描いてその名を称され『新安画派』『黄山派』の基礎を固めた一人と言われている。海陽四大家の一人。その他にも石濤、髠残、とあわせて明末三高僧、八大山人を加えて四大名僧と称されている。