生前整理を機に、版画コレクションの断捨離をされる事になったお客様に出張買取をご利用頂きました。
写真のお品物は、浮世絵師、喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ)の近江屋の復刻版画です。
 
作者 / 喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ)
 

喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ) / 浮世絵師

 
生年、出身地不明。生年は没年からの逆算で1753年と言われることが多い。
出身地は、川越、江戸、大阪、京都、栃木など諸説あるが、江戸説が有力である。
幼少の頃より狩野派の絵師「烏山石燕」に師事し、1775年の中村座の富本節正本「四十八手恋所訳」
下巻の表紙絵が、浮世絵師としての初作と言われている。
画名は初め、北川豊章と号しており、後に喜多川歌麿に改めている。
北川豊章時代の初期作は浮世絵師「勝川春章」の影響が色濃く、歌麿に改めてからは浮世絵師「鳥居清長」
風の美人画を描いていた。
1788年から1790年にかけて、版元である蔦屋重三郎に才能を認められ、豪華な多色刷りの狂歌絵本
「画本虫撰」「百千鳥狂歌合」などを版行した。
1790年から描き始めた、「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などの「美人大首絵」で人気を博し、
時代の寵児となった。
鳥居清長の美人画が全身像や群像形式で姿や衣装の美しさを表現したのに対し、歌麿は画面いっぱいに
女性の上半身を描き、表情の微細な変化を表現した「大首絵」という図案を生み出し、
独自の作風を確立した。
歌麿が、遊女、花魁、茶屋の娘など、実在の美女をモデルにした「高名美人六家撰」「当時全盛美人揃」
などの作品を発表すると、モデルの名は瞬く間に江戸中に広まった。
これに対し、江戸幕府は風紀を乱すものとして、松平定信による寛政の改革により、美人画に遊女以外の
名前を記す事を禁じた。
歌麿は幕府の規制の盲点をつき、美人画を描き続けたが、1804年「太閤記」の豊臣秀吉の醍醐の花見を
題材とした錦絵で手鎖50日の刑となった。
これを機に、歌麿は画力も衰え、1806年に54歳で死去した。
 

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