陶芸家、日本芸術院会員、文化勲章受賞者
板谷 波山
いたや はざん
Itaya Hazan
1872年〜1963年
- 作家・作品ジャンル
- 1872年
- 茨城県下館市に生まれる。本名は嘉七(かしち)。生家は醤油醸造業を営むかたわら雑貨を商っていた旧家で、三男五女の末子。有能な商人でありながら文人趣味をもった父・増太郎(ますたろう)のもと、幼い頃から芸術に親しむ。彼の芸術家としての資質は、下館という町人文化の栄えた土地と、日本の伝統芸術を深く愛する父によって磨かれたのである。
- 1885年
- 下館小学校卒業。
- 「私の父はいささか茶道のたしなみがあったので、私は幼時から陶器や諸道具に接する機会が多かった。そこで小さいときから、焼物とは尊く美しいものだという印象が頭にしみついていた」
- (『東京タイムス』1953年11月22日)
- この幼き頃の焼物への印象はまことに強烈であったらしく、波山は一途に陶芸の道を突き通す。
- 「私の父はいささか茶道のたしなみがあったので、私は幼時から陶器や諸道具に接する機会が多かった。そこで小さいときから、焼物とは尊く美しいものだという印象が頭にしみついていた」
- 1887年
- 上京し、成城学校(陸軍士官学校の予備校)に入学。その後、士官学校を受験するものの体格検査で落ち、軍人を断念。下宿付近の河久保正名(かわくぼしょうめい)の画塾に入り、鉛筆画や水彩画を描き始める。
- 1889年
- 東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科入学。芸術家としての第一歩を踏み出す。
- 美術学校時代に受けた最も大きな財産は、校長・岡倉天心からの薫陶であったと思われる。天心は東洋の美に重きを置いていたにも関わらず、新しい芸術に『独創性』を最も求めた。伝統美の継承で終わらぬよう、芸術家の着眼の妙、着想の非凡さを重視しており、波山は天心の思想の工芸制作上での実践者としてとらえることができる。事実、波山の素描集(出光美術館蔵)には『新案』とか『自案』というような注記のある図案が極めて多い。
- 美術学校時代に受けた最も大きな財産は、校長・岡倉天心からの薫陶であったと思われる。天心は東洋の美に重きを置いていたにも関わらず、新しい芸術に『独創性』を最も求めた。伝統美の継承で終わらぬよう、芸術家の着眼の妙、着想の非凡さを重視しており、波山は天心の思想の工芸制作上での実践者としてとらえることができる。事実、波山の素描集(出光美術館蔵)には『新案』とか『自案』というような注記のある図案が極めて多い。
- 1894年
- 東京美術学校彫刻科卒業。
- 卒業制作は『元禄美人』。高さ154.5cmの木彫で、唐輪まげを結い左手で着物の裾を持ちすっと立つ姿は遊女を描いたもの。初々しく品のある顔立ちの中にも、ほんのりとした色気が漂っている。この『元禄美人』で表現した美質は陶芸にも脈々と流れており、波山の作った美しい壺は神々しい光を放つとともに、ほんのりと色香をも感じさせる。
- 美術学校受験のために作られた開成予備校で彫刻を、攻玉社中学校で図画を教授。
- 卒業制作は『元禄美人』。高さ154.5cmの木彫で、唐輪まげを結い左手で着物の裾を持ちすっと立つ姿は遊女を描いたもの。初々しく品のある顔立ちの中にも、ほんのりとした色気が漂っている。この『元禄美人』で表現した美質は陶芸にも脈々と流れており、波山の作った美しい壺は神々しい光を放つとともに、ほんのりと色香をも感じさせる。
- 1895年
- 福島県出身の呉服商・鈴木作平の娘のまると結婚、本郷に新居を構える。まるは日本画家跡見玉枝に師事。
- 1896年
- 石川県立工業学校・彫刻科主任教諭に赴任。その後、陶磁科に移り本格的に陶芸の道を歩み始める。
- 1903年
- 石川県立工業学校を辞職し、東京高等工業学校窯業科の嘱託教師に。滝野川村田端に住家と工房を建立し移住。
- 1904年
- 郷里の筑波山にちなんで『波山』と号す。
- 東京高等工業学校教授平野耕輔の指導により三方焚口の倒焔式丸窯を築き始める。佐賀県有田出身の深海三次郎が轆轤を担当。
- 1906年
- 初窯を焼上げ好成績を得、『日本美術協会展』にて『彩磁薊可花花瓶』が入選。
- 波山は初窯の段階から『彩磁』と結晶釉を中心にした『窯変磁』を自らの様式の柱として作陶を展開していた。
- 1907年
- 第2回目の窯を焚いたが焼成直後の地震により、作品はわずか『窯変瓢型花瓶』1点のみ。
- 同年第3回目の窯でとれた『磁製金紫文結晶釉花瓶』を東京勧業博覧会に出品し、3等賞を受賞。
- 1910年
- 轆轤師の深海三次郎が中国に招聘され、現田市松が後任となる。その後、終生助手を務める。
- 1911年
- 第2回全国窯業品共進会で、『白磁鳳凰文花瓶』『彩磁印甸亜文花瓶』の2点が『一等賞金牌』を受賞。この展覧会に皇后行啓。夫妻で「彩磁菊花図額皿」を御前制作する。
- 1914年
- 大正天皇即位記念東京大正博覧会に高さ50cmを超える『葆光彩磁孔雀唐草文大花瓶』を出品。『葆光彩磁孔雀唐草文大花瓶』を宮内庁に買い上げられる。
- 1917年
- 大正天皇、貞明皇后、島津邸へ行幸啓、御前制作。
- 「葆光彩磁珍果文花瓶」(泉屋博古館分館蔵、重要文化財)を日本美術協会展出品、金牌第一席受賞。
- 1925年
- 帝展第4部(美術工芸)設置の気運が高まり、金工家の香取秀真、漆工家の赤塚自得らと工芸済々会結成。
- 1927年
- 帝展第4部(美術工芸)新設、その委員に。「紫金磁珍果彫文花瓶」(出光美術館蔵)を初出品。
- 関東の陶芸家による団体・東陶会結成、顧問に推挙される。茨城工芸会結成を提唱、会長就任。
- 1929年
- 香取秀真とともに、工芸家として初の帝国美術院会員に。
- 1934年
- 鋳金の香取秀真、彫金の清水亀蔵と共に工芸部門の帝室技芸員を拝命。
- 1937年
- 五代清水六兵衛、富本憲吉と共に帝国芸術院会員に。
- 1938年
- 郷里の日中戦争戦没者遺族に観音像や香炉を制作、寄贈し慰霊。
- 1945年
- 戦災により住居工房全焼、下館の生家へ疎開。
- 1946年
- 筑波郡菅間村洞下(現、つくば市)にある旧東陶会会員・古宇田正雄の作業場を借りて制作を続行。
- 1950年
- 田端に復帰、工房を再建。彩磁に着手。
- 1951年
- 下館町名誉町民に。
- 1953年
- 陶芸家として初の文化勲章受賞。「板谷波山胸像」(日本芸術院会員吉田三郎制作)を石川県立工業高校、下館小学校校庭に建立。
- 1954年
- 茨城県名誉県民に。
- 1958年
- 日本橋三越にて「板谷波山作陶記念展」開催。
- 妻まる死去(享年89歳)。
- 1960年
- 人間国宝に推薦されるも辞退。「私が文化財になったからといって、誰かれの幸せに役立つものでもないから、お断りすることにしたよ」(宮之原謙「波山先生のこと『板谷波山』1977年」
- 1963年
- 死去(享年91歳)。下館小学校で下館市葬。田端大龍寺に埋葬。下館妙西寺に分骨埋葬。
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