江戸時代後期を代表する江戸琳派の絵師。
1761年、播磨国姫路藩主、酒井忠仰の次男として、江戸の酒井家別邸 (神田小川町) に生まれた。
幼少の頃より、武道はもちろん、和漢の学問、書画や茶事、能楽など、武家の名門では必須の習い事の数々に励んだ。
抱一の兄、忠以(のちの姫路藩主)も文雅の道に通じた茶人として名高く、宗雅・銀鵝の号で茶道や俳句など、多方面にその名を残している。
抱一は、兄に何かあった場合の保険として仮養子に立てられていたが、1777年、兄に子が生まれると、酒井家の家督問題から除外されてしまう。
抱一はこれを期に、急激に軟派な芸文世界に傾倒していくこととなる。

20代の頃の抱一は、一般に「放蕩時代」と呼ばれた。それは、松平雪川・松前頼完ら大名子弟の悪友たちと共に、吉原遊郭や料亭、それぞれの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵師たちと派手に遊び暮らしたイメージからであろう。
しかし、この時代をただただ奔放に暮らしていたわけではなく、兄と共に多くの文化人と交遊し、俳句、能楽、書画、茶、狂歌、浮世絵など様々な諸芸を嗜みながら、文化人としての素養を身に付けた。

1790年、30歳になった抱一は、酒井家中屋敷に転居する。
この中屋敷への転居から2ヶ月後、兄の忠似が36歳で死去し、甥の忠道が家督を継ぐこととなった。
抱一は自らが大名になることに関心は無かったが、酒井家に生まれた男子として生家の存続に無責任だった訳ではない。
酒井家が無事に甥によって継続された事で、武家としての義務から開放されたのだった。
1786年から1793年まで続いた寛政の改革で浮世絵や狂歌が厳しく取り締まられると、抱一は大名の子息としての規制により、浮世絵や狂歌の世界から身を引いていく。

このような内・外の情勢の変化がきっかけになったのか、1797年、37歳となった抱一は西本願寺へ出家し、「法名真」の名と「権大僧都」の層位を賜った。
抱一にとって出家が自発的ではなかった事は、得度直後の京都へのお礼旅行でうかがえる。
抱一は、俳句仲間を引き連れて名所を訪ねながら観光旅行をした挙句、京都まで行ったにもかかわらず、本来の目的である西本願寺御門跡に会わずに江戸に帰って来てしまうのである。
層位を賜った抱一は武家としての身分から完全に解き放たれ、市中で暮らす隠士として芸術や文芸の道に生きることが可能となった。

抱一が光琳を模範とし始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定されている。
当時、光琳は江戸の知識人の間で評価されており、こうした評価は抱一の光琳学習にとって強い精神的な支えになったことだろう。
また、光琳は一時期、酒井家に仕えており、酒井家に光琳画が所蔵されていたことも後押しとなった。

抱一の現存する中で最も古い琳派風の作品は「月に秋草図」である。
40代初めの頃の抱一画は、水墨を主体とするものが多く、一見した派手さには欠けるが、真摯な実験的な試みや、地道な思考の痕跡が垣間見える、魅力的な作品揃いである。
この頃の抱一は、色彩を抑えモノトーンに近い世界に固執していたが、それは、薄明かりの世界への憧憬であり、淡い光の中でようやく色や形を表すものへの愛着である。

1809年、49歳になった抱一は、後に「雨華庵」と命名する庵を根岸に営む。
1815年、「雨華庵」にて光琳の100回忌の法事を行い、根岸の寺院で「光琳遺墨展」を開催した。
また、同年、記念作品集「光琳百図」を刊行し、この一大事業は、抱一の光琳継承を世に知らしめるものとなった。
名実共に、光琳の後継者として琳派画家の座を揺るぎないものにした抱一は、1820年に還暦を迎え、琳派研究は更に進展を見せた。
1823年、上野坂本善養寺に光琳の弟である乾山の碑を建立し、版本「乾山遺墨」を刊行、また3年後の1825年、「光琳百図後編」を刊行した。
抱一の画業の最後を飾るのは12の月にちなむ花と鳥を組み合わせた「十二ヶ月花鳥図」の連作である。
1829年、68歳で死去。抱一の光琳への慕情は生涯潰えることはなかった。