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[記事公開日]2020/08/11

浅井 忠(あさい ちゅう) / 画家

 
1856年、佐倉藩士の子として江戸屋敷に生まれる。
幼い頃から武士として育てられる一方で、藩の南画家、黒沼塊山から絵の手ほどきを受ける。
黒沼に「槐庭(かいてい)の号」を与えられ、この頃から頭角を現していた。
1973年に上京し、1875年、国沢新九郎の彰技堂で油絵を学ぶ。1876年、工部美術学校に入学。
イタリア人画学教師、アントニオ・フォンタネージの教えの元、西洋画を学んだ。
1878年、病気で帰国したフォンタネージの後任教師、フェレッチに対する不満を爆発させ、
小山正太郎、松岡寿を初めとした同士11人と共に退学し、「十一会」を結成。
この頃、世間一般ではいわゆる洋画熱が冷めて来た頃で、新しい近代絵画として印象派が台頭していた。
洋画を志す者にとってひとつの受難期であり、そうした状勢の中、浅井は自身の作風を突き詰めていった。
こうして、その努力の結実として生まれたのが、代表作「春畝」と「収穫」である。
1889年、浅井が中心となって、日本初の洋風美術団体「明治美術会」を設立する。
「春畝」は「明治美術会」の第一回出品作であり、「収穫」は第二回出品作である。
1894年、日露戦争へ従軍。1898年、東京美術学校の教授に任命される。1999年、パリに留学。
印象派に影響を受けながらも、浅井独自のしっとりと明るく重厚な画風へと進展する。
この時期、「グレーの洗濯場」「グレーの秋」「縫い物」などの名作を生み出している。
1902年に帰国し、京都高等工芸学校の教頭に就任。1906年、画塾「関西美術院」設立。
後進の育成にも尽力し、画家としての才能と同時に、教育者としても優れた人物であった。
安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、津田青楓、向井寛三郎らを輩出している。
また、遊陶園や京都漆園の図案や、書籍の押絵などを通じて京都の工芸界にも活気をもたらした。
1907年、心臓麻痺により死去。享年、51歳であった。
 

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