15歳で弟の秦蔵六と共に、当時鋳金術の名工として知られていた『龍文堂』の四方安之助(安平 1780〜1841)に入門しました。
その後、独立後は湖辺の煙花を慕い滋賀県、能登川に永住。『亀文堂』と号し、独創的な作品の数々を制作しました。そのなかでも細工を施した掻蝋鉄瓶の発明は、用をもって功とする道具に美を与えたものとして高く評価された他、佳作が多い文具などは大正から昭和の文士達にもてはやされた。

波多野正平造の鉄瓶には底裏に 家在日本琵琶湖之東の印銘があります。