柴田是真 (しばた ぜしん)Shibata Zeshin 1807(文化4)年2月7日~1891(明治24)年7月13日は江戸時代幕末、明治時代に活躍した日本画家、蒔絵師、漆芸家。

名は亀太郎。その後順蔵と改める。号は是真。その他にも対柳居、令哉、沈柳亭の別号がある。
江戸両国橋の彫工、柴田市五郎と ます の長男として産まれ11歳の時、蒔絵師・古満寛哉(こまかんさい)に師事し蒔絵を学んだ。
その後、16歳の時、四条派の絵師、鈴木南嶺(すずきなんれい)に師事し蒔絵の下絵も自らが描き始め20歳前後にして独立する
天保11年34歳の時に王子稲荷神社に奉納した『鬼女図額面』をきっかけに絵師として出世する。その後蒔絵の技法で元禄年間に青海勘七によって考案され途絶えてしまった青海波(せいがいは)塗を復活させ内外の博覧点に蒔絵額や漆絵を数多く出品しウィーン万博(1873年)、フィラデルフィア万博(1876年)、パリ万博(1889年)などで受賞。
1890に帝室技術員となり1891年には日本漆工会を設立した。

弟子・門下には庄司竹真、池田泰真、綾岡輝松、歌川芳玉などがいる。

代表作には 富士田子浦蒔絵額、五節句蒔絵手箱、木の葉文蒔絵文箱などがある。