楊文聡は中国、明時代末期に活躍した文人、画家。楊師孔の子。西暦1597年~1646年(万暦25年~永暦元年)

字は龍友、貴陽出身。西暦1618年(万暦46年)郷試に合格するもするも、その後進士に及第しなかった。天啓元年(1621)に起こった奢崇明の乱で、父(楊師孔)と共に貴陽城を堅守し名を上げた。

その後、天啓四年(1624)南京に移住し、挙人のまま崇禎年間に、華寧県学教諭・青田知県・江寧知県を歴任したが、汚職のために弾劾されて官職を失った。

その後、南京に福王政権が成立すると、万暦末に挙人し、南明唐王朝の兵部右侍郎の官職に就いた。その後、南京没落後は員外郎・郎中を経て京口監軍となり、京口に駐した。清軍に破れ、敗走後は南明唐王政権の兵部右侍郎に就任した。隆武二年(1646)、福建浦城で清軍に殺されるも、最後まで抵抗し節を曲げる事は無かった。

山水は元人の風格に近く、董其昌に画才を賞賛された。著書には『洵美堂集』がある。