貫名海屋 ヌキナ カイオク Nukina-Kaioku 1778年~1863年(安永7~文久3年)は江戸時代後期に活躍した儒者、書画家。徳島(阿波)生まれ。本姓は吉井、名は苞(しげる)。字は子善、君茂。通称は泰次郎、政三郎。方竹山人、須静山人、林屋、海屋、海叟、海客、菘翁(すうおう)などと号した。
幼い頃から書画を善くし、初めは藩の絵師であった祖父・矢野典博に狩野派の画法を学んだ。同時期、高野山に入山し空海の書に感銘を受けた。その後大阪に出て儒学者、中井竹山に師事し懐徳堂の塾頭になる。その後各地を遊歴して長崎で日高鉄翁に出会い南画を習得した。晩年は京都に須静塾を開き儒学を教え、六十代海屋を称した頃からは特に書家として名声を得た。70歳の古稀を迎え岡崎聖護院に移り住み菘翁を号してから最晩年の書が最も評価が高い。市河米庵、巻菱湖、貫名海屋と合わせて幕末の三筆の一人として称されている。
幼い頃から書画を善くし、初めは藩の絵師であった祖父・矢野典博に狩野派の画法を学んだ。同時期、高野山に入山し空海の書に感銘を受けた。その後大阪に出て儒学者、中井竹山に師事し懐徳堂の塾頭になる。その後各地を遊歴して長崎で日高鉄翁に出会い南画を習得した。晩年は京都に須静塾を開き儒学を教え、六十代海屋を称した頃からは特に書家として名声を得た。70歳の古稀を迎え岡崎聖護院に移り住み菘翁を号してから最晩年の書が最も評価が高い。市河米庵、巻菱湖、貫名海屋と合わせて幕末の三筆の一人として称されている。