雲谷等顔 ウンコク トウガン Unkoku Togan 1547年~1618年(天文16年~元和4年)は戦国時代末期・安土桃山時代・江戸時代初期にかけて活躍した画家。雲谷派の開祖。
名は治兵、のちに直治と改めた。別号には容膝がある。
肥前国津郡(佐賀県鹿島市)の人。能古見城主原直家のの>次男。
天正年間の戦で父・直家が戦死、自家が絶える。この頃から画家へ転向し京都で狩野派に学んだ。
その後、毛利家の御用絵師として広島、萩の城、江戸桜田の藩邸や毛利家と縁のある個人や寺院で壁画の制作を行い、およそ百石の給録を得た。
静かで抑制された趣の水墨画を得意とし、1593年(文禄2年)毛利輝元から雪舟の旧跡雲谷庵と『山水長巻』を授与され、それまで途絶えていた雪舟の画系の後継者として指名された。
そして禅僧であった雪舟に習い剃髪し、雲谷庵の庵号と雪舟の諱・等楊からそれぞれ一字をとり名を雲谷等顔とし、以後の作品には『雪舟末孫等顔筆』の落款を入れた。
画の他にも茶の湯、連歌にも精通した。
名は治兵、のちに直治と改めた。別号には容膝がある。
肥前国津郡(佐賀県鹿島市)の人。能古見城主原直家のの>次男。
天正年間の戦で父・直家が戦死、自家が絶える。この頃から画家へ転向し京都で狩野派に学んだ。
その後、毛利家の御用絵師として広島、萩の城、江戸桜田の藩邸や毛利家と縁のある個人や寺院で壁画の制作を行い、およそ百石の給録を得た。
静かで抑制された趣の水墨画を得意とし、1593年(文禄2年)毛利輝元から雪舟の旧跡雲谷庵と『山水長巻』を授与され、それまで途絶えていた雪舟の画系の後継者として指名された。
そして禅僧であった雪舟に習い剃髪し、雲谷庵の庵号と雪舟の諱・等楊からそれぞれ一字をとり名を雲谷等顔とし、以後の作品には『雪舟末孫等顔筆』の落款を入れた。
画の他にも茶の湯、連歌にも精通した。