カノウホウガイ kano hougai 1828年~1888年(文政11年~明治21年)は明治時代に活躍した日本画家。河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最期を飾った。幼名は幸太郎。別号は皐隣、松隣、勝海など。山口県生まれ。

長州豊浦藩の絵師、狩野春皐の第4子として生まれ、幼い頃から画に囲まれながら生活し自らも画家を志し13歳の時に狩野松隣として『孔丘尊像』『二宮祭礼図』を描く。

14歳の時に『翁図』、15歳の時に『馬関真景図』、『繋馬図』を描いた。

19歳で上京。木挽町狩野家に入門しおよそ10年間、勝川院雅信に師事する。同期入門した橋本雅邦と合わせて『勝川院の二神足』と称された。橋本雅邦とは生涯の親友となり互いに影響し合った。

30歳の時、木曽路を経て帰郷する。道中に『真景縮図』『嵐山地取』のスケッチを残した。帰郷後に結婚するもその後江戸に戻り、上江、大広間天井図を制作。

34歳の時『雪舟筆山水長巻』を模写。同時期に雪舟の画に大きな影響を受けたとされる。

37歳の時、馬関海峡の測量に従事し、38歳の時に『馬関彦島沖測量図』を完成。

40歳の時『寿老・鶴亀図』を父と合作し10月29日に家督を継ぐ。

43歳の時『墨竹図』『竹に虎図』を制作。

47歳の時『松本寒齋像』を制作。

56歳の時、籠池会例会にて第2回パリ日本美術縦覧会出品作家に指名される。同時期にフェノロサ(アメリカ合衆国の東洋美術史家)に雇われ『山水(雪舟暮渓図)』を制作。

57歳の時、第2回パリ日本美術縦覧会に『観音図』『山水』を出品。文化省御用掛となる。

58歳の時、第1回鑑画会大会に『伏龍羅漢図』『群鷹図』を出品。フェノロサの好評価を受けた。同時期、フェノロサの支唆によりワットマン紙に『山間水車図』を提供。

61歳の時肺炎のため他界。